生から死までの哀愁はノスタルジー

それでも生きていかなくちゃ

さよならわたしの140字。

近頃、ふとツイッターの限界を感じることがある。『おなかすいた』というあまり意味のない一言が流しそうめんのようにフォロワーさんのTLに流れ、誰かにお箸ですくってもらえれば『っアンパンマン』などとというリプがきてわたしのツイートは無事誰かに消化される。が、そのまま誰にもすくってもらえずに流されていった『おなかすいた』というわたしのツイートは次々と流れてくるツイートたちに飲み込まれて果たしてどこにいくのだろう、と、考えると、ツイッターってちょっと悲しい。

別にね、リプがこないからとかフォロワーが一向に増えないからとかでツイッターdisっているわけではなくて、いやほんとに、なんだろ、もっとちゃんと起承転結を考えて文章書きたいなと思いはじめてこのブログをはじめることになるわけですが。まぁ、ツイッターもやってるんですけどね。やってるっていうか、いまはもうパズドラのゲリラ時間割を確認するくらいでほとんどTL眺めてるだけの簡単なお仕事なんですけど。あとやっぱ情報がリアルタイムで入ってくるのがツイッターの一番の長所だと思ってますのでツイッターはやはりいまの時代大切だとおもいます。

 

ツイッターにがっつりハマってたっていう時期はちょうど今から2~3年くらいの間。それまでは3年くらいずっとブログ書いてた。好きなブロガーさんたちが次々とツイッターに流れ、ブログの更新頻度が減ったり、ブログ事体を消してしまったりなどして、悲しかった。わたしだけはツイッターに流されまいと必死にブログを更新していたが、ふと魔が差したときにツイッターのアカウントを作ったら右腕と左足どころか全身を魂付きでまでまんまごっそりもってかれた。

『おはよう』『今日のお昼はおにぎり』『あつい』『電車くさい』『疲れた』『せっかくコンビニきたのに財布わすれたわろすwwwwwwwwwww』『鬱だわぁ』『お風呂わず』『おやすみ』一日に何回もツイートして、その時はネットのお友達からリプがきて馴れ合いするのが心の支えだった。

だけどいま、アカウントを放置したり、さらに気分でまた新しく作ったりを繰り返しているうちにここ2~3年のわたしの記録がどこにもないことに気づいた。

 

放置してあったアカウントを覗いてみる。『鬱だ』という文字は残っているがどういう状況でそういう感情になりどういう想いでツイートしたかというのはもちろんだが思い出せない。140字では語れないが故に『鬱だ』という2文字だけが残ったのだと思うが、わたしはその時のわたしの気持ちが知りたかった。

ツイッターでは不可能だがブログならそれが可能だ。だったらもう一度、はじめてみればいいじゃない。そういうあれで今に至るわけだが、そうですね、はい、そんな感じでひとつよろしくお願いします。

 

ところで某くぎゅ宮理恵さんも最近になってブログをはじめられたようで、拝見してきましたところ文章が可愛すぎてやっぱりくぎゅうううううううってなりました。

あととらドラすげぇみたくなった。りゅぅううううじぃいいいいいいいいいい。おやすみなさい。